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≪ Opera 9.51でフォントが変更できない不具合について | 『マンガはなぜ面白いのか』 夏目房之介 ≫

『作家の顔』 小林秀雄

 「日本における批評の文章を樹立した」日本の文藝評論家……などという説明は不用でありましょう。新潮文庫版。

 あらゆる文章の、その背後に作者の人間がいるという信念(江藤淳)のもとに、鋭敏な感覚をもって書かれた、主に作家論の集です。


 私は小説を読んで、あるいは何かしらの意思の表明を、論を読んで、その感想を書くことを拙ブログの目的の一つとしている。しかし、評論に意見する言葉は持たぬ。氏にとって批評が自己証明である限り、私が何を書いたところで、圧倒されるばかりで我が矮小を強調するのみであろう。

 いつ、どこで読んだやら忘れたが(おそらく三四年は前だ)、芸術に触れることとは、餌のない釣り針を、心の奥深くに、静かにゆっくりと垂らしていく行為であるという言葉が印象に残っている。

 爾来、鑑賞とは、そのものを観ることと同時に、それに何ものかを感じる自己を観ずることである、というのが私の鑑賞態度の底辺をなしている。無論文章も同様である。

 だから、評することは自己をさらけ出すことだ。私は自分を裸にしてまで、小林秀雄の論(その背後の巨人!)に言葉する術を知らぬ。雑文書きのくせに表現を放棄することを許されたい。そもそも捨て去る言葉さえ私にはない。

 私は元来言葉で表現をするのが苦手だ。またまた、と心優しい読者に言わせたいのではない。ましてや謙遜でもない。ある何ものかを感じ取ったとき、それを言葉というある程度デジタルな箱に詰めるのを惜しく思うのである。私は論理を愛する。もとより記号から成り立つから、言葉に変換しても欠くところが小さい。私の言語は、直観の著しい欠損を恐れる。

 素晴らしいと書くのは簡単だ。ましてや怪しからんと書くのはもっと容易い。言葉にならぬ内なる何ものか(意識しているとは限らぬ)を、なお言葉の上に表象する試みにおいて、そのぼやける輪郭を、かたどるように既存の言葉で埋め合わせていく。読みという光明が差したとき、読み手の心の内にはある影絵が浮かんでいる。読み手小林秀雄にはそれが判然と作家の顔として見えていた。書き手小林秀雄の批評は、初め曖昧と駁されたそうである。

 これ以上の雑文を続けることはすまい。私の釣り針は、引きちぎられて持って行かれてしまった。

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