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≪ [ラノベ] ダンタリアンの書架 三雲岳斗 | 満漢全席 南條竹則 ≫

マンガの歴史ほんのちょっとだけ ~手塚神話ってなにさ~

 ちょっとあまりにしょうもない文章があったのでつっこんでおく。私増田って死ぬほど嫌いなんだけど引いてみた。

 手塚治虫はそんなに凄い人じゃないと思う。これ。

 功績の話と好き嫌いの話とまぜこぜにしていて1の脳みそが残念なのは読めば分かってもらえると思いますが、じゃあ手塚の功績ってなんなのというと誰も具体的なところを言ってくれません。その話と、もうちょっと後のマンガの話。

 まず、現在のマンガ論の文脈では手塚神話にたいして割と消極的です。手塚が一人でマンガの表現を築き上げたというのは少なくとも嘘です。この先はほぼ夏目房之介の『マンガはなぜ面白いのか』に拠ります。今読むならもっと新しいの買ってね。


「内容」の新しさ

 手塚治虫がマンガを世の中に送り出したのは戦後からですが、戦時中の時点でそれまでのマンガには見られなかったようなマンガらしきものを描いています。

 それまでのマンガってなんぞっていうと、これは「子供が読むための安全な読み物」です。その中で死とか性とかを描くことは到底不可能だったわけで、マンガは極めて狭い表現でした。そういうものを発表していた雑誌類を捨てて、手塚は赤本をメディアに選びます。これは駄菓子屋で売るような安っぽい単行本単位のもので、比較的自由に描くことができた。

 手塚が描いたマンガは、小説にしては荒唐無稽すぎ、映画や芝居で扱うには規模が大きすぎるものです(夏目, 1997)。そんなものが、マンガで描けることを示したわけです。

 手塚は50年代に入る前からすでにエロスにまつわるタブーを破っていた、不良マンガ家でした。恋愛みたいなものを描くのも子供向けという従来のマンガでは無理です。60年前後には石森正太郎なんかも子供らしい恋愛要素みたいなのを取り入れたりしている。そうやってマンガの表現の幅を広げていくことになったわけです。

表情と心理描写

 さて、少し戻って戦前の漫画というと、紙芝居とか絵にお話がついたような絵物語とかまで含めるとどこまで遡ってよいかわからなくなってしまいます。この辺りも大事だと思いますが、今の感覚でマンガ的だと呼べるものだと「のらくろ」みたいなのがありますね。

 のらくろと手塚マンガの違いってなんなのかというと、絵に表情があることです。表情が描けると、心理描写ができます。心理描写ができるとドラマがかけます。もちろん手塚だけがこれをやったわけではないけれど、そんなふうにしてマンガが前述の深い内容を描けるようになっていく。

 その表現はチャップリンの無声映画やディズニーのアニメ、宝塚歌劇などから影響を受けています。逆にディズニーに影響を与えた面もあります。同時代のほかの漫画家から借りてきた表現もあります。

 それは単体で見れば借り受けたもので、新しいものではないようです。それをマンガというメディアに落として再構成したこと、そしてそれによってマンガの可能性を広げていったことが、手塚の今なお天才と呼ばれ敬せられる所以だろうと思います。

劇画の時代

 手塚の絵は60年代にも入るとすでに古臭いとみなされるようになります。ディズニーのようなまるっこい描線でデフォルメされた絵、宝塚歌劇から得た大げさな全身の表情が、はじめは新しかったものだったとしても、次第に子供っぽいものとされていく。これ自体が「子供の読み物」の変化でもあるのだけど。こうして劇画の時代が来ます。白戸三平とかさいとうたかをとか。

 ゴルゴ13なんか明らかに手塚的な絵では表現し得ないものであったし、それまで育てられてきた感情の描写がデューク東郷には一切使われません。この辺は時代的な流行によるものです。

 戦後劇画以前のマンガはやはり子供向けで、戦前よりは対象年齢が上がったものの、中学生くらいには卒業するものだった。それが段々大人が読むマンガが現れていきます。それを一連の流れと見るなら手塚の影響もあるでしょう。ただ、もっと別の流れもあります。劇画はその延長でもある。

大人向けのマンガ

 50年代から60年代、貸本屋と言うのがありました。今時あるのか分からんですけど、『金魚屋古書店』というマンガを読むとちらっと出てきたりします。これは文字通り本、マンガを貸す商売なんだけど、前の赤本と同じで商業雑誌から離れたところで自由な表現をやろうという世界です。

 ここで流行るのはエログロとかです。水木しげるとかもこの頃登場します。あと永島慎二みたいな恋愛そのものを扱ったようなのも出てくる。今、タイかどこかだったかな、ちょうどこんな感じらしくて「低俗な」マンガが地下で流行ったりしているようです。一方、「今の」日本マンガの影響を受けたエリートマンガと分離した文化になっている。韓国にも劇画的なめちゃくちゃやってるマンガがあるんだとか。面白い傾向だと思う。

 64年、貸本マンガの出版をやってた長井勝一がガロという雑誌を創刊します。内容的に一般雑誌で発表できない貸本マンガ家たちを拾い、また新人発掘をやる、エログロありのマンガ雑誌です。白戸三平がカムイ伝を載っけてたのがこれ。

 たとえばつげ義春がフロイト先生に影響されたような暗喩的なエロを描いたりする。これは恋愛を超えてポルノに踏み込んでます。そういったものから70年以降、暗喩的な表現を心理描写に生かした少女マンガの技術革新につながっていったのだろうと夏目先生はおっしゃってます。

 この辺りまで来ると手塚的なマンガ手法では表現できません。宝塚のようなお芝居のリアクションによる全身の表情で喜怒哀楽を表現するものですから、繊細で微妙な描写には追いつかない。こちらはむしろ『天才バカボン』のようなトキワ荘組のマンガや、子供向けのドラえもんなどの流れに組み込まれていると思います。


 あー疲れた。この後ドラえもんによるリテラシ教育と劇画運動の流れを汲む大人向けのマンガとで、読者層の上と下が一緒に開拓されるという展開があったりします。マンガというものが二分しつつも、どこかでつながっているという面白い状態です。実はゴルゴ13とドラえもんって同じ年に始まっているんですよねえ。そういう時代です。

 めんどくさいし少女マンガに入るとてんで分からんのでおしまい。むしろ少女マンガの表現について学べるテキストがあったら教えてほしい。

 あとついでに言ってみる。手塚の絵が云々という人たまにいますけど、アニメ化以前の手塚の絵って今読める手塚作品と全然違いますからね。レオとかアトムとかでも。「手塚は書き分けができてない」とかしたり顔で言う人いますけど、たぶん書き分けという表現自体がなかっただろう。今の感性に当てはめてもしゃあない。「『吾輩は猫である』はラノベ」とか言うようなもんで、言ってりゃいいですが無為ですナ。

 今のマンガを何でも手塚が作ったという神話が崩壊しているのは事実だけど、今はその上で功績について再評価される、という状態だと思います。神格化がおかしけりゃあたいしたことない人物なのかってとあまりに極論です。社会学の研究でもネット上のコミュニケーションは極論化しやすいといわれてますので、発言する側も読む側も何かにつけて注意が必要ですよ。

参考文献

マンガはなぜ面白いのか 夏目房之介 NHKライブラリ

関連タグ: マンガ

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