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≪ [ラノベ] 『付喪堂骨董店』 御堂彰彦 | 土曜のこと ≫

スカイ・クロラ 森博嗣

 中公文庫から出てる『スカイ・クロラ』が平積みしてあったから買ってみた。間違いなく押井守の監督で映画化される影響ですね。

僕はまだ子供で、ときどき、右手が人を殺す。その代わり、誰かの右手が、僕を殺してくれるだろう-。近未来を舞台に、戦闘機パイロットである「僕」の日常を描き、「死とは」の問いに挑む。

MARC

 もの凄く奇妙な小説です。


 裏表紙の解説には『寓話』と紹介されている。寓話とはある教訓を持つ物語のことであるから、解説のとおりなら読み手は内包されるメッセージを意識することになる。問題は、この小説がそれ自体を否定していることだ。

 この物語には確かに、『死』について主人公が自身の考えを語るモノローグ/ダイアログが挟まれる。しかし、それ以上に『大人と子供』という対照または『子供』という存在そのものが描かれている。

 大人と子供の対比は物語一般によくよく登場する概念である。

大人
理屈
打算
安定
コスモス
子供
感情
純真
不安定
カオス

 大抵の場合子供が善として描かれる。さて、スカイ・クロラ作中の主人公のモノローグである。

人に理解されることほど、ぬるぬるとして、気色の悪いことはない。僕はそれが嫌いだ。

 作中の主要な登場人物は全員「子供」である。二度繰り返されるこの言明が、寓話性を拒絶する。

 理解という行為は、この作品においては大人のエゴだ。大人は未知を恐れ、子供を手の届く範囲、既知の世界にとどめておくようにする。理由があれば安心する。

 本来的に子供の世界に理由などはない。スカイ・クロラは大人になれない子供『キルドレ』という主体を持ち込むことで、ここに深く切り込んだ作品だと思う(この理解自体がエゴなのだが)。

 誰がいかに死を捉えていようと、それを理解/共感しようというのは意味のないことだ、と子供の価値観は考える。ただし、主人公の右手は最後の最後でその純粋性を汚して、理屈をつけて引き金を引く。これは大人の原理だ。この重層性がこの作品の特異さだろう。

 だから、この小説を読んだとき読み手はいい知れない違和感を覚える。どこかふわふわしている感じがあるのに、読み進めると酸欠に似た切迫感に気が付く。ある人に雰囲気小説と言わせしめる。


 文体がまた面白い。通常時は根拠のない描写をしない、極めて簡潔で、分析的で、具象的な、淡々とした文章がつづられている。これが崩れるのがモノローグだ。

 モノローグは明らかに子供の原理で書かれている。思考と行為、行為と行為は断絶している。

 これは単に映像主義的な作品だと思っていると見落としがちな部分じゃないかと思う。映像主義なのではなくて、普段はよけいな主観を挟まないだけだ。感情は適切な場面で道具的に表象するのだとカンナミ自身が語っている。徹底して一人称小説であることを意識して書かれていると言っていい。そうでなくては語りが説得力をなくす。そして、だからこそ異なる原理のモノローグが異様なほど浮き立っている。


 長くなった。兎に角、死ぬの死なぬのといった「子供」達のやりとりにとらわれているとむしろ読みにくいと思う。理解などは端から求められていない。

≪ [ラノベ] 『付喪堂骨董店』 御堂彰彦 | 土曜のこと ≫

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