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≪ 国語力 | ライトノベルシリーズ『よくわかる現代魔法』 アニメ化 ≫

高瀬舟 森鴎外

 なぜ森鴎外なのかというと、これが山と積まれて収納に困り始めた未読本の中から無造作に引き抜かれた一冊だからである。

 鴎外といえば高校のとき教科書に『舞姫』が載っていたのを読んでいた記憶がある。夏目漱石の『こヽろ』も似たような時期に授業で扱って、これが面白いので中途に抜き出されたものであるのを残念に思い、そのうち通して読んでやろうと意気込みつついまだ野望は果たされていない。そんなわけであるから『舞姫』も同様だろうと思いこんでいて、この間青空文庫で読んだらなんのことはないあれで全文であった。

 さて読み始めるとすらすら読めるので私もなんだか賢くなったようないい気でいたのであるが、よくよく見るとページあたりの文字数が少ない上に現代仮名遣いに直されているので当然のことである。今回読んだのは集英社文庫、表題の『高瀬舟』や『山椒大夫』や『阿部一族』などを含む短編集。

 『寒山拾得』にかつて読んだ三島由紀夫の文章読本が引用した一節を見つけて悦に浸っていると、巻末の解説でも同様に三島を引いていた。有名どころの話ではない。

 閭は小女を呼んで、汲みたての水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取つて、胸に捧げて、じつと閭を見詰めた。

 という一節に対して、三島は泉鏡花の華麗な文体と対照し、

 この文章はまつたく漢文的教養の上に成り立つた、簡潔で清浄な文章でなんの装飾もありません。私がなかんづく感心するのが、「水が来た」といふ一句であります。(中略)これが一般の時代物作家であると、閭が小女に命じて汲みたての水を鉢に入れてこいと命ずる。その水がくるところで、決して「水が来た」とは書かない。まして文学的素人には、かういふ文章は決して書けない。

 と述べる。一見して事務的で機械的な表現というものは鴎外の文章に散見せられる特質である。例えば『境事件』や『阿部一族』における、殉死者の名前と経歴の列挙などがそうだ。

 これは外国人に言わせるとただの事実の列挙であり小説的でない部分であるそうなのだが、日本語を母語として持つものが読むとこれが小説として読める。ここに翻訳不可能な、林望によると「文豪鴎外の文章の精髄がこもって」いるのである。だそうである。

 まあ"I am a cat. I have, as yet, no name."みたいなものであろう。次の文などは"Where was I born? I have no idea."とアメリカンになってしまう。

 内容についていえば、鴎外の「日本になかった概念」を持ち込んで表現しようとした作品がいくつかあるのだと解説の川村湊が書いている。『高瀬舟』はそのテーマを鴎外自身がEuthanasieの紹介にあるとしている( 『高瀬舟縁起』)。これは仏語で安楽死を意味する言葉だ。現代の感覚でも日本ではそれほど受け入れられているわけではないが、当時にしてみれば概念そのものがない。

 それから自己犠牲の精神についても類似である。『境事件』ではフランス連中が日本人の切腹を見てどうしたこうしたというのが話のクライマックスになる。切腹は「忠義のため」「君主のため」ひいて「家のため」という原理があるのに対し、キリスト教的な自己犠牲というのはこれと明らかに異なるわけだ。

 話はそれるが鴎外が概念なら、私は漱石を読むときに語彙のレベルでの試行錯誤を感じる。日本語になかった概念や表現、あるいは微細なニュアンスの違いを同訓異字や当て字を用いてなかば言葉遊びのようにうつる。これが楽しい。「月がきれいですね」は有名過ぎるか。

 長くなったのでこの辺りにしておこう。

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